ほしのエキスポ

うつを愉しむ。

太宰治『人間失格』を読んでみた【世間というのは君じゃないか】あらすじと感想

f:id:hoshinohoshinokko:20150723170713j:plain

芥川賞を受賞した又吉氏の影響もあり、子供ごころに衝撃を得た記憶のある太宰治の『人間失格』を読み返してみました。

当時は主人公の異常さ・不幸さにばかり目が行っていた気がしますが、

大人になってみると周りの人間の薄っぺらさ、それに対する皮肉なども読み取れてきて、また違った印象を受けたので

一度読んだことがあるという人も是非読み返してみてはいかがでしょうか。

 

---------------------------------------- 

 人間に恐れおののく道化師 

 良家に生まれ何不自由なく育ったはずの葉蔵は実は物心ついたときから人間の営みというものが理解できていない。

疑問をもたずに生活をしている家族が恐ろしく、クラスメートが恐ろしく、下男や下女が恐ろしい。飯を食わねば死ぬという「迷信」を信じ儀式のように揃って厳粛に箸を動かす人々が難解で恐ろしい。

 

自分の異質さに恐怖と不安を覚えた葉蔵は「お道化」をすることによってお茶目なキャラクターを演じることにより本当の自分を隠すことに成功する。

学業が得意だったため「尊敬される」という本人にとっては恐ろしい状況になりかけたがお道化でわざと失敗して切り抜け、それどころかクラスの人気者になっていく。

 

しかしそれは本来の姿ではない。

 

葉蔵はいつ自分の正体がばれるか、ばれたときに周りを欺いてきた自分に対する復讐はそれはそれは恐ろしいものに違いないと恐れおののき、ひそかにものまねの練習をするなど道化を磨いていく。

 

そんな彼の人生の中で2回、道化が見破られてしまう事件が発生する。

1回目は幼少期に鉄棒からわざと落ちたところをクラスメートの竹一から「ワザ、ワザ」と指摘されたこと。

2回目は青年になった葉蔵が女と入水自殺をし自分一人生き残ったときに、ハンカチに耳の下のおできをいじった血を喀血に見せかけて咳をしたときに物静かな検事に「ほんとうかい?」と問われたこと。

一見小さなことに思えるこれらの出来事は道化を磨きつづけてきた彼にとっては恐ろしく恥ずべき大失敗であり、まさに大げさと言う感じではあるが「地獄の業火につきおとされたかのように」震撼するのだ。

 

酒におぼれ、徐々に薬物中毒となり、ついに精神病院に送られた葉蔵は最終的に自分自身に「人間失格」の烙印を押す。

 

 

行動に理由づけを求める大人

物語の大筋部分ではないが、二つ印象的なエピソードあったので簡単に紹介したい。

 

自殺未遂のあと、葉蔵は父の別荘に出入りしていた父の太鼓持ちのような存在の骨董商、「ヒラメ」の家に世話になることになる。

このヒラメというのが兄からの仕送りを自分が用意したかのように振る舞ったりする厄介者だが、葉蔵との印象的なやり取りがある。

 

ヒラメは葉蔵を呼び出し、「あなたは今後どうするつもりなんですか」と真面目くさって質問する。

そのとき学校に入りなおせば国から援助が出ることが決まっており、葉蔵はそのことを知っていれば迷いもせずその道を選んだはずだった。

しかしヒラメは葉蔵が自分からそういう発言をしないと許さない。

 

 「真面目に私に相談を持ちかけてくれる気持ちがなければ、仕様がないですが」

「それは、あなたの胸にもあることでしょう?」

「そりゃお金が要ります。しかし、問題は、お金でない。あなたの気持ちです」

口調は嫌になるほど周りくどい。

 

ヒラメの発言は一見気持ちを引き出す教育者のようにも見える。

ヒラメ自身、そういう自分に酔っているようなところがあったのだろう。

 

しかし自殺未遂をし、家族から見放された葉蔵は金のあてもなく、無邪気に「それでも私は勉強したいのです」などと言える立場であるはずもない。

画家になると言った葉蔵をヒラメは意地悪く軽蔑したような目で見る。

 

かくして葉蔵はこの場所を逃げ出すのである。

変な筋を通させようとしたヒラメの自己満足により、葉蔵は道を断たれた。

それはそもそも葉蔵が悪いのであろう、だけど、ヒラメの行動はうすっぺらな偽善だ。

迷ってしまっている人間を前にそれでも筋を通させようと正論を振りかざす大人は、

時に若者の将来を断つ

 

 そんなことを感じるエピソードだ。

 

 

世間というのは君じゃないか

葉蔵には友達と言える存在が学生時代にともに飲み歩き、互いに軽蔑し合っている悪友の堀木しかいない。

しかしその魅力で常に女にはもて、ある女のつてで漫画を連載するようになり小銭を稼げるようになっている。

 

ある日堀木が葉蔵の漫画の人気に嫉妬したのか軽蔑か、文句をつける。

葉蔵が不本意ながら例の道化でごまかすと、堀木はいよいよ調子にのって「世渡りの才能だけではボロがでるからな」と注意を促す。

「世渡りの才能」という自分とはかけ離れた形容に愕然とする葉蔵。

そして堀木の次の言葉で気づくのである。

 

 

女道楽もこの辺でよすんだね。これ以上は、世間が許さないからな」

 

 

 

「世間」とは何なのか。

葉蔵は今までそれを漠然と「人間の複数」であり、強く、きびしく、怖いものとばかり思ってきた。しかしこの瞬間気づいてしまう。

 

 

「世間というのは、君じゃないか」

 

(それじゃ世間が、ゆるさない)

(世間じゃない、あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんなことをすると、世間からひどい目に逢うぞ)

(世間じゃない、あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない、葬るのは、あなたでしょう?)

 

 

葉蔵は「世間=個人」なのではないかという思想めいたものを持つようになり、それ以来、多少自分の意志で動くことができるようになる。

つまり、少しわがままで、おどおどしなくなったのだ。

 

ここはかなり考えさせられるシーンだ。

世間=個人なのだ。

これは現代社会でも変わらない。

 

人間は、自分個人の意見を、自分個人が気に入らないことを、

「世間の声」という盾を振りかざして攻撃する。

 

この二つのエピソードは必ずしも『人間失格』のメインの部分ではないが、

グサリと響いて印象深いものだった。

子供のころは葉蔵の異常さにばかり目がいってしまい、こういった皮肉めいた箇所を読み流してしまったような気がする。

 

あなたの心にも道化師がいるかもしれない

 この本に対しては、共感できる人とできない人真っ二つに別れるのではないかと思う。

なぜこんなに周りを疑り、自分が何者かもわからず、すべてを恐れるのか、こんな変わり者のことはさっぱり理解できないという人も多いだろう。

おそらく、当然のように愛され、素直にまっすぐ育った人なのかもしれない。

 

一方、ここまで極端でなくても、自分の価値が見いだせなかったり

どこか人の目や人の評価を気にしてヒヤヒヤしながら生きている人もいるだろう。

気に入られたりその場をやり過ごすために

必死で明るいキャラクターやいい子、いい人を演じるあまり疲れ果てている人もいるだろう。

 むしろそういった経験は多くの人が少なからず持っているのではないか。

 

そういった人々は葉蔵の異常さに自分の持つほんの少しの闇を重ね合わせ、ひそかに共感するのだ。

 

だが、すでに葉蔵がぼろぼろになってから知り合ったはずのバーのマダムが、彼のことを回想しながら「神様みたいにいい子だった」と評する。

 

これは葉蔵の心身に染みついた道化の賜物なのか?

それとも彼はほんとうに普通のいい子に過ぎなかったのに、

自らを異質な存在と決めつけてしまっていただけなのか?

 

マダムはさらりと「あの人のお父さんが悪いのですよ」と言う。

見逃してしまいそうな何気なさだ。

 

だが、葉蔵が幼少期から道化をしないといけないほど人間が信じられなくなってしまった理由、小説中では明かされないが

太宰は父親に対する思いというものを、ひょっとしたらここに表現したのかもしれない。

 ----------------------------------------  

薄い本なので、ぜひこの夏に読んでいただきたい一冊です。